いつか遺書になる

大事な気持ちだけカプセルに閉じこめて取っておきたい

理論を飛び越える

 

先日、祖母が亡くなった。

もう危ないだろうと言われていたので突き落とされるような悲しみはなかった。それはここでも書いた。https://room307.hatenadiary.com/entry/2024/02/19/002500

 

けれど、お葬式で棺の窓を最後に閉じた時、突然もう顔すら見ることはできないんだということがじわりと迫ってきて悲しくなり、泣いた。

それから、祖母の体が棺ごと火葬炉に移動して、空間内の熱さからなのか湯気か煙らしきものが棺の上にぼうと立ち昇るのを見て、急に恐ろしい気持ちになった。熱いじゃん、やめてよ、痛い、と子どもみたいな感想を持ってしまった。

 

人が心と思っているものは脳であり、脳はたんなる臓器のひとつで、心臓というコアが動かなくなればほかの臓器と同じように「心」もそこで終わる。

心ってなんなんだろうと日頃からずっと考えてて、自分なりの結論が上記なんだけど、火葬炉の前でそんな理屈は吹き飛んで、むしろ私はまったく真逆のことを思っていた(もう亡くなっているのに、そこに魂があるような気がして、「熱い」という感想を抱いた)。破綻している。

それから、待合室で冷静になって、その結論の冷たさが私に虚無感を与えすらした。脳=心なら、じゃあ全部焼いてしまったら何にも残らないじゃないか。という。

 

それで、普段は非科学的なものはまったく興味がないんだけど、お坊さんがよくしゃべる人で、法事の後にお経の意味や死後の魂がどこへ行くかなどを話してくれて、それにものすごく救われた。

いくら魂がどうこう言われても、実際は魂なんてないし、体が死んだら終わりに決まってるじゃないか。と思ってたけど、そんなことは皆わかってて、でもそれではあまりにつらく悲しすぎるから、そのために宗教があるのかもしれないと20代半ばにしていまさら気が付いた。

 

優しい物語や美しい言葉を綺麗事だと嫌ってきたし、今でも薄っぺらいそれらはすごく嫌だけど、祈りや救いとしての綺麗事と混同してはいけないなと思った。

 

むしろ、いくら理論的な正しさを知り/求め/主張しても、現実の苦しみや悲しさの前ではそんなものはまるで役に立たないし、切り捨ててきた非現実的な言葉がそういった苦しみから一時でも逃してくれるんだ、ファンタジーはそのためにあるんだ、と思い知った一週間だった。

ただ、前者を知りすらしないと、陰謀論などにどハマりすることになるのでは?という懸念もある。